【読書ノート】『グリーン経済学』1章~7章

 ノードハウスの本は『気候カジノ』につづいて2冊目。

 評判がいいので読み始めてみて、今のところ18章まで読み終わっているのだけど、正直かったるい。冗長なんだよ…。この内容ならたぶん200ページくらいで収められると思うんだけどなあ。

 今のところの印象は、「環境経済学+α」といった感じ。環境経済学の教科書と同じようなこと言ってらあ、というところもかなり多いのだけど、もうちょっと広い視野を持っているようにも思う(環境の話だと思ってたのに、11章なんかはコロナパンデミックの話になってるし)。ただ、やっぱり書き方が冗長なせいで、どこらへんが環境経済学と違うのかが見えにくくなっている。

 1章ずつ丁寧にまとめていくのはしんどいし、新しい本だから著作権的にもちょっと気を遣ってしまう。まとめるというよりも、気になったところを引用してちょこちょこコメントを書いてくみたいなやり方にしようと思う。

1 序文

(筆者の考える「グリーン」という概念は)現代の産業社会がもたらす危険な副次的影響と、その影響を解決するか、少なくとも歯止めをかける方法についての、関連し合ったアイデアの集合である。本書において「グリーン」と書いた場合には、現代社会の衝突や感染症の解決に取り組むムーブメントを指す。(p1)

 本書では、持続可能性に対して配慮した考えや取り組みのことを「グリーン」と言っているように思う。だから、環境問題だけじゃなく、パンデミックの話も出てくるわけだ。

 で、じゃあ「持続可能性」のことはどう考えられているかというと、次のように書かれている。教科書通りの定義だと思う。

本書を貫くテーマにおいてもっと広い意味で言うならば、持続可能な社会とは、将来世代が、少なくとも今日世代と同じくらい豊かな生活水準を享受できるように営まれる社会である。

 例のブルントラント報告の定義とほぼ同じです。ただし、ブルントラントの方は持続可能な開発を「将来の世代の欲求を満たしつつ,現在の世代の欲求も満足させるような開発」と定義している。「欲求」と「豊かな生活水準」は必ずしもイコールではないのだけど、ここは注意すべきなのかな? ノードハウスの方は、経済的豊かさだけでなく、ケイパビリティみたいなものも考慮に入れているのかもしれない。

www.mofa.go.jp

2 グリーンの歴史

 2章はピンショーとミューアという、アメリカの環境思想に影響を与えたふたりの人物が紹介されている。環境倫理学の教科書でよく出てくるおなじみの2人だ。ザックリ言うと、ピンショーは「自然を賢く利用する」という視点から環境の「保全」を訴えたけど、ミューアの方は「手つかずの自然」を「保存」することを訴えたとかなんとか、そういう話だ。

 12ページでは、この2人が環境(とくに森林)に対して考えている価値が図で示されている。

  • ピンショーの考える森林の価値
    • 市場サービス(木材などの生産物の価値)
  • ミューアの考える森林の価値
    • 非市場サービス(レクリエーション、土壌侵食防止、貯水などの価値)
    • 生物中心の価値(種や自然に固有の価値)

 環境経済学の教科書の分類でいえば、ピンショーが考えている価値は直接利用価値だ。で、ミューアの考えている非市場サービスの価値は間接利用価値、そして生物中心の価値は非利用価値(とくに存在価値)になるだろう。

 ミューアの姿勢がどっちつかずな感じがするのだけど、それは、生物中心の価値ばかり訴えていては人々を環境保護に動員することができないからだ(p14)。だから、「レクリエーションって楽しいですよね。だから環境保護を頑張りましょうよ」という風に訴えた、という面もある。

 本章はまだあんまり面白くない。環境倫理学の教科書で普通に出てくる話なので。

3 グリーン社会の原則

私が思い描く理想的な社会とは、公正で豊かな国家を繁栄させるための制度、行動、技術が備わった社会である。わかりやすく伝えるために、私はそれをよく管理された社会と呼んでいる。(p21)

 こういう理想の社会像はロールズが考えていたものに近い、と筆者は言う。ただし、ロールズは「正義」に焦点を当てていたけれど、本書ではそれだけでなく「効率」にも焦点を当てるという(p22)。ノードハウスは環境経済学者なので、効率に焦点を当てるのは当たり前だ。

 よく管理された社会の4つの柱として、以下のようなものが挙げられている。

  1. 人々の関係を定義する法体系(人々の権利を擁護するとか)
  2. 私的財の市場が十分に発達していること
  3. 外部性をうまく解決する方法を見つけ出していること
  4. 政府が制度の平等性を推進すること(課税と支出で不平等を是正するとか)

 環境経済学が扱うのは普通は2と3だと思う。1は所与の条件と仮定していて、4に関しては政治家に任せますという感じじゃないかな。1と4も考慮に入れようとしているところが、グリーン経済学の独自性なのかもしれない。

外部性を扱う際の重要な原則は「連邦主義」である。つまり、責任は、社会のピラミッド構造の適切な構造――個人、家庭、企業や組織、政府、世界――に割り振られるべきだという考えだ。(…)大気汚染の問題に、個人、町、州、企業、国家、世界という、6つの階層の規則で取り組むことが考えられる。過去の例で見れば、6つの階層のうちの5つには効果がない。効果があるのはただひとつ、国家の規制だけである。個人の場合、インセンティブが弱く、情報も充分ではない。(p27)

 ここらへんは環境経済学の教科書には出てこない、かな? 間接的にはこういう考えが示唆されているようにも思うけど。気候変動の場合だと「国家」+「世界」が責任を負うべき、ということになるだろうか。

4 グリーン効率性

 環境経済学の超基本的な考えが説明されている。ピグー税とか。ここは流し読みでOK。

5 外部性を規制する

 ここも環境経済学の基本。コモンズの悲劇とか費用便益分析とかの話。

6 グリーン連邦主義

 ここでは「依頼人代理人問題」の視点からグリーン連邦主義(3章でちょろっと出てきた)の困難について論じられている。

 「依頼人代理人問題」というのは、「エージェンシー問題」という呼び方の方が一般的かもしれない。代表的な例が株主と経営者の間の関係。株主は「企業利益を最大化する」という仕事を経営者に委ねているわけだから、株主=依頼人、経営者=代理人(エージェント)となる。だけど、株主の監視能力には限界があるしコストもかかるので、四六時中経営者を監視しているわけにはいかない。すると、経営者は企業利益よりも自分自身の利益を高めるように行動してしまう、というような問題だ。

 このエージェンシー問題を、グリーン連邦主義に適用することもできる。まず、グリーン連邦主義の発想でいくとそれぞれの階層がどんな問題に対処すべきなのか整理してみる。

グリーン連邦主義での階層 対処すべき問題の例
世界 気候変動
国家 二酸化硫黄
地域
騒音
家庭 ネズミの駆除

 一番下の階層ではエージェンシー問題はそれほど深刻ではない。家庭内では多くの利害が共有されているから、家がネズミだらけだとみんな困るので基本的にはみんな頑張ってネコイラズを散布する。

 だけど上の階層に行くほどエージェンシー問題が深刻になってくる。これは、各主体の直面する外部性に共通点が無くなってくるからだ。たとえば一番上の気候変動の場合、その損失は世界中の国々が不均等に負担することになる。さらには、気候変動では現在世代だけでなく、まだ生まれていない将来世代も利害関係者に含まれてくる。将来世代を「依頼人」と考えるなら、「代理人」である現在世代は、依頼人のことなんて何も考えずに車を乗り回し二酸化炭素を排出するだろう。

7 グリーン公平性

 グリーン公平性とは、一般的な公平性の考えに次の3点を加えたものだ。

  1. 世代間の公平性
  2. 環境的正義(環境上の便益と負担が平等に分配されること)
  3. 動物に対する公平性

 ここらへんは環境経済学の議論を完全に越えている。というか、モロに環境倫理学の話題だ。

 環境的正義について。環境政策は公平なのだろうか?

  • 汚染対策の費用は逆進的。たとえばガソリン税貧困層に不利に働く傾向。
    • しかし、ガソリン税を累進的に還流すれば(つまり、低所得世帯に割り戻す額を高く設定する)、こうした不公平を解消することは可能。
  • 大気汚染の著しい地区で暮らしていることと、ひとり当たり所得とのあいだには、強い負の関係が成り立つ(つまり、貧しい人の方が大気汚染にさらされやすい)。
    • したがって、汚染削減の政策を実施すれば、貧困層の方が多くの便益が得られる(便益が累進的になる)

 動物に対する公平性については、今のところ、動物の法的地位は認められていない(猿の著作権をめぐる訴訟では、連邦裁判所によって訴えが退けられた)。

 世代間の公平性の問題は8章で論じるとのこと。

【研究ノート】環境配慮行動関連の論文あれこれ

 環境配慮行動関連の論文はどれも似たり寄ったりでつまんない、と思ってたからあまり読んでなかったけれど、改めて調べてみるとこの10年くらいで新しい展開を見せているみたいだ。最近勉強し直している風土論とも絡んできそうな気もするので、面白かった論文を簡単にまとめてみる。がっつりまとめると面倒なので、面白そうなところだけ箇条書きで示す(というか、線引っ張ったところを雑に訳す感じ)。

論文1:計画的行動理論は引退せよ

Sniehotta, Falko F., Justin Presseau & Vera Araújo-Soares. 2014. Time to Retire the Theory of Planned Behaviour. Health Psychology Review 8 (1): 1–7.

  • 計画的行動理論に関する実験研究は驚くほど少ないし、その少ない研究を見てみても、計画的行動理論の前提を支持するデータは得られていない。
  • 計画的行動理論に対する批判には事欠かない。疑問符がつくのは、モデルの倹約性と妥当性のバランスだ。意志的行動のすべてを扱うと豪語する理論が、たった4つの説明概念しか使わないのって、いくらなんでも不十分では? たとえば、行動に対する無意識の影響とか、前もって予期できない感情の役割とかを無視してることは、批判の的になっている。
  • 批判がとくに集まっているのは、計画的行動理論の予測妥当性の限界だ。文献レビューがはっきりと示しているのは、観察される行動のばらつきの大半が、計画的行動理論によっては説明できていないことだ。とくに、「inclined abstainers(誘惑に駆られる節制家)」、つまり、意図を形成するもののそれを行動に移せない人々の問題は、計画的行動理論で扱えてない限界だと認識されてきた。
  • 計画的行動理論の主要な問題は、行動のばらつきを十分に説明できていないことではない。むしろ、理論が示す命題が明らかに間違っていることが問題なのだ。
  • 自己決定、予測される後悔やアイデンティティといった動機に関わる尺度、あるいは習慣の力、または計画のような自己抑制的な尺度の方が、計画的行動理論に含まれる尺度よりも行動をうまく予測できることが多い、というのは膨大な証拠によって裏付けられていることだ。
  • 計画的行動理論がもっともうまく予測できるのは、対象者が若者、健康な人、あるいは金持ちであり、そして短期的な自己報告の行動を予測するときだ。行動変容理論をもっとも必要とする(アル中のような)人々に対しては、計画的行動理論は当てはまりがよくないのだ。
  • 計画的行動理論が生まれて30年が過ぎ、この理論の有用性はもう失われてしまっている。実践家が人々の助けとなるような介入の仕方を構築する上で、この理論は役に立たないのだ。
  • 計画的行動理論は、「とりあえずこの理論を使っておけば理論に基づいた研究だといえるよね?」という空疎なジェスチャーになり果ててしまった。計画的行動理論から新たな知見を最後にわれわれが受け取ったのは、果たしていつのことでしたかね?
  • 時代遅れの理論は捨ててしまおう。計画的行動理論はもはや行動や行動変容を扱うための素晴らしい理論とは言えなくなっているのだから、これまでの功績をたたえて引退してもらい、穏やかな余生を過ごしてもらおうではないか。
  • (最後に、ポスト計画的行動理論みたいな研究がたくさん並べられてる)

コメント

 この論文自体は新しいモデルを提案しているわけではないけど、計画的行動理論の呪縛から解放してくれる研究であると思う。

論文2:環境配慮行動を決めるのは習慣だよ

Linder, Noah, Matteo Giusti, Karl Samuelsson&Stephan Barthel. 2022. Pro-Environmental Habits: An Underexplored Research Agenda in Sustainability Science. Ambio 51 (3): 546–56.

  • 習慣(habit)というのは多くの日常行動の基本であって、変えることは難しい。いったん習慣が形成されると、熟考したり再考したりすることもなく、その習慣が継続してしまうのだ。
  • しかし、環境配慮行動に関するこれまでの研究では習慣の影響がほとんど説明されてこなかった。それで、行動変容のために人々に介入する際にも、知識形成やフィードバック、モニタリングのような合理的プロセスを通して動機づけを与えるのが普通だった。でもこれらは習慣を変えるほど影響力を持つものではないし、長期的な行動変容にもつながらない。
  • 本論文の目的は、潜在的な習慣が持続性に配慮した行動を促進する(あるいは妨げる)可能性を探究することだ。本論文では「環境配慮習慣(Pro-Environmental Habits:PEH)」を「環境に益をもたらす、または害を最小限に抑える習慣」と定義する。
  • 習慣はわれわれの行動の多くを導くものだ。ある研究によると、われわれの日常行動の40%は意識的な思考を伴わない習慣によって導かれているという。しかもこれは自己報告による結果なので、その自己報告からもれた分も考慮するなら、もっと値は大きくなるだろう。
  • 習慣形成には3つの重要な柱がある。
    • 1.形成するには繰り返しが必要
    • 2.習慣は行動を自動的に誘導する
    • 3.習慣は文脈依存的なものである
      • (たとえば、家だとだらしなくなるけど会社ではビシッとしてるみたいなことだと思う)
  • 習慣が形成されるきっかけは様々。「歯を磨いたら糸ようじも使おう!」と意図的に行動することで、いつしかそれが習慣になることもある。あるいは、公共交通機関が使えなくなると自家用車を使うようになり、そのうち習慣になってしまうこともある。
  • 習慣を変えるにはいろいろやり方がある。
    • 1.「Xという状況が生じたら、私はYと反応する」という風に宣言していくうちに、それが新たな習慣となる。
    • 2.自己モニタリングをして、習慣が発動するのを抑制する。
    • 3.習慣が文脈依存的なのだから、文脈自体を変えてやる。例えば引っ越すとか。
  • 過去の行動によって将来の行動をうまく予測することが出来る、というのは習慣に関する研究でこれまで明らかにされてきたことだ。
  • ナッジや規範に関する知見は、環境配慮行動の変化を促す自動的プロセスに介入する上で役に立つかもしれない。
  • 習慣が形成されるためには、周囲の文脈によってその習慣の可能性が与えられなければならない。つまり、アフォーダンスというやつだ。
  • 人々の動機に働きかけるやり方のダメなのは、人々の動機は不安定なものだからだ。これに対し、文脈が一定であれば、その文脈によって形成される習慣も安定的なものになる。環境配慮行動を繰り返し引き起こす安定した周囲の文脈こそが、環境配慮習慣を形成する上で本質的なものだ。
  • 引っ越ししたばかりの人の方が、引っ越ししてない人よりも、持続可能性に寄与する行動を促す介入が効果的に働いた、という研究がある。つまり、文脈を変えることで、環境価値に対して働きかけやすくなったということだ。
    • (つまり、引っ越さないでずっと同じ場所に住んでいる人は、そこでの習慣にどっぷり浸かっているので、なかなか行動が変えられないということだと思う)
  • 習慣上の役割によってその人のアイデンティティが決まってくるのだと示す研究もある。自分が何度も繰り返し行っている行動を振り返ることで、「俺はXという行動をする人間なのだ」と思うようになるということだ。
  • 習慣を変えることは、態度やアイデンティティやさらには文化までも変えることにつながる。このことをよく示すのは、2007年にイギリスのバーで禁煙を導入したことだ。これによって、単にみんなタバコを吸わなくなったというだけでなく、喫煙に反対する規範や、禁煙に対する知覚リスクが高まったのだ。

コメント

 この論文の議論を風土論につなげることはできなくはないと思うんだよ。この論文で示されている因果関係はこんな風にまとめることができると思う。

 環境(のアフォーダンス) → 環境配慮習慣 → 環境に配慮するアイデンティティや文化

 そして、そうした文化を通して環境を眺めたり評価したりする、ということもあるだろう。つまり、ベルクの言うように、環境と社会(文化)の間に通態関係が成り立っているということだ。

 風土論的にいえば、ここに歴史性も含めたいところだ。「剥き出しの環境」があるわけではなく、環境は常に歴史的な風土性の中で意味づけられている。たとえばその環境が持つアフォーダンスだって、部外者である研究者の目からは一見するとよくわからないものだったりすることもあるかもしれない(まあ具体例が思い浮かばないのだけど)。

 この論文は単に「習慣」に焦点を当てているというのではなく、環境配慮行動をもっと生態学的な視点から捉えようというもので(とくにアフォーダンスを持ち出してるあたりとか)、壮大なスケールを感じさせるものになっている。風土論と相性がよさそうだし、この系列の論文をもう少し探してみようかな。

論文3:文脈的な人と自然の環境にも目を配れよ

Giusti, Matteo. 2019. Human-Nature Relationships in Context. Experiential, Psychological, and Contextual Dimensions That Shape Children’s Desire to Protect Nature. PloS One 14 (12): e0225951.

  • 本研究の目的は、子供たちが自然を守りたいと思う気持ちを促進するにはどうすればいいのかをもっと理解するために、人と自然の関係性に関する概念化と評価に取り組むことだ。
  • 人と自然のつながり(Human-Nature Connection:HNC)という概念がある。人と自然の関係についてはいろんな学問分野でバラバラに研究されがちだが、HNCはそうしたバラバラな考え方を統合するものだ。HNCには次の3つの側面がある。
    • 1.心理学的HNC
      • これは、人と自然の関係を心の属性として捉えるものだ。
    • 2.経験的HNC
      • これは、自然の中にいるときの経験として人と自然の関係を記述するもの。質的研究を通して表現される。
    • 3.文脈的HNC
      • 「場所のセンス」に関する研究から生まれた考え方。人が場所との間に築く帰属感覚として人と自然の環境を捉える。
  • これらはバラバラに捉えられるべきではない。たとえば心理学的HNCだけではなく、文脈的HNCも用いることで環境保全行動の予測力が高まるという研究もある。
  • 行った調査の概要
    • サンショウウオ・プロジェクトというのをスウェーデンの10歳の子供たち対象にやった。公園に水遊び用のプールがあるのだけど、春のうちは水が入ってない。そこにサンショウウオが閉じ込められて乾いて死んでしまうことがよくある。そこで、みんなでサンショウウオを助けて近くの池に放してあげよう、というのがこのプロジェクトだ。
    • 参加者は158名だけど、全員がサンショウウオ・プロジェクトに参加したわけじゃない。参加していない子たちは対照群として位置づけている。参加したのは67名で、経験的HNCを求めるために事後インタビューをしたのは25名だ。
    • 体験的HNCは事後インタビューで評価する。このプロジェクトやサンショウウオ、さらには動物や自然一般について何を考えているかを訊いた。
    • 心理的HNCは、既存の尺度(Connection to Nature Index)なんかも使って作り上げた。たとえば「サンショウウオへの共感」などを訊いた。あと、もっと暗黙的なつながりも見るために、自然を表す単語を子供たちがどれだけ素早く連想できるかというのも評価した。
    • 文脈的HNCは、「あなた」「自然」「家庭」「都市」と書かれた丸い図形を見せて、それぞれの図形の位置関係を選んでもらった。たとえば「あなた」と「自然」が重なり合ってるのを選ぶか、それとも分離してるのを選ぶか、といったようなことだ。ようするに、それぞれをどれくらい親近感のあるものとして捉えているか、みたいなことだ。
    • 最後に、プロジェクトに参加した子供たちには、「将来、環境を守る仕事につきたいと思う?」と質問した。
  • インタビュー結果を見ると、子供たちはプロジェクトに参加することで、サンショウウオに対して共感するようになったり関心を持つようになったりしたようだ。それだけでなく、他の動物一般についても同じようなことをコメントしている子もいる。あと、最初は「気持ち悪い」という壁があったけど、プロジェクトに参加することでこの壁を乗り越えたという発言もあった。
  • ところが、心理的HNCと文脈的HNCに関するアンケート結果は、プロジェクトの参加前後で変化がみられなかった。まあ、これは残念というよりも、むしろHNCは様々な観点からみないと適切に捉えられないのだという本研究の主張を支持するものだろう。
  • アンケートの結果を主成分分析にかけると、次のふたつの主成分が抽出された
    • HNC(Human-Nature Connection)
      • 「自然を守る仕事につきたい」と正の相関をもつすべての変数、そして「自己と自然の近さ」「家庭と自然の近さ」、「サンショウウオへの共感」などから構成される
    • HND(Human-Nature Disconnection)
      • 「自然を守る仕事につきたい」と負の相関を持つ2つの変数と、「自己と都市の近さ」「家庭と都市の近さ」から構成される。
  • これらの主成分には、「自己と自然の近さ」等の文脈的HNCに関わる変数がぜんぶ入っている。そして、これらの主成分を入れたモデルがもっともよく適合している(AICの値が最小)ことがわかった。
  • まとめると、本研究が示唆していることは、人と自然の関係は、心、身体、文化、環境のあいだの有意味な関係性のシステムとして定義した方が良いという事だ。
  • 文脈的HNCを取り入れることで「自然を守る仕事につきたい」という子供たちの欲求をよりよく予測できるようになった。文脈的HNCにおいて、子供たちと自然の距離が遠かったり、逆に都市に近かったりすると、自然を守る仕事につきたいという欲求は弱められてしまう。これは、子供たちの日常的な生活環境が、彼らの自然保護への意欲を妨げることがあるということだ。個人の教育よりも、日常的な生活環境を変えることの方が重要なのだ。屋内での個人学習よりもコミュニティ構築を!

コメント

 これも環境配慮行動の促進にあたってはシステム的思考が大事だよ、という趣旨の論文だ。文脈的HNCという、ようするにその人が自然に対して愛着を持っているのかそれとも都市に対して愛着を持っているのかを示す変数を導入することで、子供たちの環境配慮への欲求をより良く予測できる。だから、単に学校で「環境の大切さ」とか環境に関する知識を教えるだけでなく、子供たちが自然に対して愛着を持てるような町づくりが大事になってくるのだよ、というのが筆者の結論だ。

 環境を守るためにはまず環境をつくらなければならない、ということだ。これは2番目の論文の主張ともリンクしてくるな。トートロジーのようだけど、まあ、そういうものなんじゃないかな。人と自然の関係は、風土論でも示唆されているように循環的なものだ。人が環境をつくるのでもあるし、環境が人をつくるのでもある。その循環の流れをちょっと変えて、良い流れに変えていこうというのが、論文2と3で提案されている新しい環境教育のあり方なのだと思う。

 ただ、この論文3に関しては、文脈的HNCの尺度がちょっと頼りない感じではある。単に、丸の中に「you」とか「nature」とか書かれた図形がたくさんあって、「人と自然の関係をもっともよく表すものを選んでみましょう」という質問をしてるだけなのだ。これらの図形がたがいによく重なり合っているものを選んだ子は自然に強い愛着を持っていると判断する、ということだけど、ちょっと解釈が恣意的すぎやしないだろうか? これこそむしろインタビューで訊くべきだったんじゃないかと思うけれど。あと、経験的HNCに関しては、うまいことコーディングして統計分析に入れることもできたと思うけど。「内容分析」という手法もあるので、きちんと手順を作って数人でコーディング作業をすれば分析の客観性はある程度担保できる。とはいえ、こういう研究の第一弾としてはよくできてると思うよ。以下、アンケート用紙の英語版のリンク。

https://doi.org/10.1371/journal.pone.0225951.s003

【読書ノート】『風土学はなぜ何のために』5章~ラスト

第五章 風土学の二つの時代

 やがて私(ベルク)は地理学から存在論の方に興味が移っていった。和辻が言うように、風土とは「人間存在の構造契機」なのであり、風土について論じていくのなら、存在論について論じていくことになるのだ。

 ユクスキュルという昔の生物学者は「環世界」という概念を提唱した。つまり、「客観的なひとつの現実」があるというのは絵空事であって、それぞれの生物種が生きている世界はそれぞれ異なる、という考え方だ。たとえば牛には赤は存在しない。波長が700ナノメートルの電磁波は、人間には赤に見えるが、牛にはそもそも色として知覚されないのだ(闘牛の牛は赤色に反応しているわけではなく、闘牛士の身振りに反応している)。

 人間も、ヒトという生物種に固有の世界に住んでいる。そしてそれだけでなく、人間の場合はそこに各文化に固有の特殊化が加わる。たとえば風景に対する捉え方は文化によってぜんぜん異なる。それどころか、西洋の場合、ある時期までは風景そのものが存在しなかった(周りの環境を風景として見る文化が存在しなかったのだ)。

 われわれは「客観的なひとつの現実」を見ているわけではなく、われわれの風土に固有の見方で事物を見ているのだ。そして逆にわれわれ自身もまた、事物との相互作用の中で、風土とともに形成されていく。それこそが通態なのだ。

コメント

 なんか第3章のあたりから同じ事を手を替え品を替え言い直しているだけのようにしか思えないんだけど…。

第六章 通態的な連鎖

 日本には「見立て」という伝統がある。たとえば、琵琶湖沿いの「近江八景」を、華中の湖南にある洞庭湖近くの「瀟湘八景」として見る、というような奴だ。

 これは、「琵琶湖は洞庭湖である」ということだ。主語である琵琶湖をSとして、述語である洞庭湖をPとするなら「PとしてのS」という風に言える。

 つまり、現実(r)とは、「PとしてのS」なのだ。r = S/Pということだ。なぜ大文字のRではなく小文字のrを使うのか? それは、現実はたったひとつのものではないからだ。

 通態化の過程は歴史的なものだ。だから、rにさらに新しい述語が付け加わる。((S/P)P’)P’’…という風に通態は連鎖していくのである。

 こうして述語を強調する論法を用いると、「西田哲学みたいですね」なんて思われるかもしれない。でもそういうことじゃない。西田はPが究極のものだと考える。しかし、私はSもPも同等だと考える。一緒にしてくれては困るのだ。仏教みたいに「全ては縁起であり空(くう)である」なんてことを考えているわけではない。

コメント

 また同じ事をあれこれ言い換えてるだけだよなあ、という風にしか思えない。

 「空(くう)ではない」というところが自身の風土論の立場なんだ、ということを強調しているけれど、その強調になんの意味があるのかは正直よくわからん。訳者解説でも同様に「双方を隔てる根本的な違い」と指摘されているものの、ちがったらなんだってのさ、ということについては筆者も訳者も説明してくれない。私としては、哲学の世界の些末な重箱の隅つつきにしか思えないのだけど。ちなみに、次章では述語を絶対化する西田の論理が大東亜戦争への支持につながったみたいな議論が出てくる。でも、それはあまりに粗雑な批判だと思う。だって、述語を強調するのが戦争礼賛につながってしまうのなら、縁起と空(くう)を説く仏教だって同罪ということになるでしょう。そしていずれにしても、哲学者が社会にそれほど大きなインパクトを与えられると本気で信じているのなら、あまりにナイーブだと思う。

第七章 風土学は何のために?

 r = S/Pという式には、SをPとしてみる解釈者(I)が前提とされている。だから、((S/P)P’)P’’…という風に連鎖を続けていけばいくほど、I自身もI→I’→I’’…という風に進化していく。こうしてIの主体性は、連鎖を重ねるごとに、現実へとよりいっそう浸みこんでいくのだ。つまり、「風土はよりいっそう人間的となり、犬の環世界はますます犬的に、猫の環世界はますます猫的になる」(p94)ということだ。

コメント

 最後の「犬の環世界はますます犬的に、猫の環世界はますます猫的になる」という言い方が好き。でも、章の内容自体は相変わらずの堂々巡り。

全体感想

 しかしこうしてみると、本当に第4章以降は蛇足だな。100ページくらいしかない薄い本でこれだけ繰り返しだらけというのは、ちょっとまずいのではないだろうか。

 ベルクが何か重要なことを言ってる気がすると思うからこそ、これまで二十年近く読み続けてきたのだけど、こうして整理してしまうと、議論のあまりの貧しさに驚く。「まとめ方、端折りすぎじゃない?」と思われるかもしれないけれど、実際、議論が堂々巡りになっているところがほとんどなのだ。

 ベルクは地理学から存在論に移行した、と五章に書いてあるけれど、それが失敗だったのではないだろうか。むしろ、存在論に目配せしつつも、地理学に留まり続けるべきだったのではないだろうか。前に、ハイデガーメルロ=ポンティ現象学をベースにして心を持つロボットをつくる、という趣旨の本を読んだことがあるけれど、哲学じゃないアプローチを使うからこそ、哲学者には決してたどり着けないような新しい領域を切り開くことができるのだと思う。 

odmy.hatenablog.com

 「風土」という考え方の使い道はそれなりにいろいろあると思うのだよね。たとえば、最近、人々の「習慣」が環境保全行動を強く規定している、という趣旨の論文を読んだ。

Pro-environmental habits: An underexplored research agenda in sustainability science - PMC

 「習慣」は、たんに人々の行動を規定するだけでなく、人々の価値観にまで影響を及ぼす。公共の場での喫煙を禁止すれば、それが習慣になって家でも喫煙をしなくなったり、喫煙は良くないという価値観が形成されたりするということだ。となると、とくに都市環境なんかでは、ナッジみたいにして人々がある特定の行動を取りやすい環境作りをすることで、人々の行動も価値観も変えることが出来るかもしれない。いわば、個人に焦点を当てるのではなく、人々と環境との関係性に焦点を当てることで、環境保全をめぐる文化そのものを変えていくということだ。

 ここらへんで風土論の発想が使えないかと思っている。風土論を使えば、そこに住む人々が風土との間にどんな関係性を築いているかを分析することができるだろう。すると、その関係性において、どんな行動が習慣化されやすいかというのも見えてくるかもしれないし、逆にどうすれば別の行動が習慣化されやすくなるかも明らかに出来るかもしれない。たんに風土を記述するのではなく、人々が環境配慮行動を習慣にしやすいように風土をデザインし直すというような話だ。まだかなりぼんやりしてるのだけど、こういう方向性に風土論を活用していける可能性はある気がしている。

 で、ベルクみたいに哲学に深入りするのはやめた方がいいと思う。老後の楽しみとしてはいいかもしれないけれど、正直なところ、不毛としか思えない。ベルクの本はもう読まないでいいな。

【読書ノート】『風土学はなぜ何のために』4章

第四章 通態化

 デカルトは、「我思う、ゆえに我あり」と言ったとか言わなかったとか。いや、言ったのだ。言わなかったにしても、『方法序説』には確かにそう書いてある。

 彼はこう考えた。目の前に見えるこの現実は、もしかしたらただの幻かもしれない。この机も、ペンも、ミカンの皮も、誰かが私見せている幻なのかもしれない。それを言うならこの体だってそうだ。この手は本当に存在するのか? ただの幻では? 鏡に映るこの私のテカテカした顔。これもまた、幻では? そして、そう考えたとしても一応つじつまは合ってしまう。これが幻でないという絶対的な根拠は見つからない。そんな風に考えていくと、私が現実だと思っていたもののほとんどが幻だと疑えることになる。しかし、どうしても疑えないものがある。それは、こうしていろんなものを疑っている私だ。「思考する私」は確かに存在するのだ。だから、「我思う、ゆえに我あり」なのだ。

 しかしデカルトの言うことを認めると、「私」が存在するためには風土なんて必要ないということになる。場所とか物質とかとは無関係に、私は私だけでぽつんと存在している、というわけだ。

 風土論はこうしたデカルト的な発想に真っ向から異を唱える。われわれは風土から切り離されて存在しているのではない。むしろ、われわれは風土においてのみ、われわれとして存在できるのである。

 たとえば、「物に寄せて思いを陳(の)ぶ」という言葉があるけれど、日本人は俳句で、風景を通して自分たちの思いを表現してきた。デカルトみたいに「私が」「私が」と主張するのではなく、環境全体、日本の風土全体に日本人の主体性は浸みこんでいる。逆に、日本という風土の風土性が、あらゆる日本人に浸みこんでいる。こうした、「私」と「風土」のあいだが切り離されず、お互いに浸透し合っていることを指して、わたしは「通態」という言葉を作ったのだ。

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 前回出てきた「風土性」という概念によると、人間はこの生物的な身体(動物的身体)だけでなく、風土的身体も併せ持つ、ハイブリッドな存在だ。だとすれば、「私」という存在はこの動物的身体でもあるし、動物的身体の外側に広がる風土的身体でもある。つまり、「私」という存在はデカルトの考えるみたいにポツンと独立して存在しているわけではなくて、風土と相互浸透しながら存在しているのだということになる。ベルクが「通態」という言葉で言おうとしているのはそういうことだと思う。

 風土論は分散認知の議論と似てるなあ、と前回書いたけれど、分散認知はあくまで思考に関する話だ。つまり、生物は脳だけで考えているのではなくて、道具を使ったり、空間の中で身体を動かしたりすることを通して思考する、というような話だ(たとえば、紙とペンという道具を使うことで、脳のリソースを越えた量の計算をすることができるようになるとか)。だけど、ベルクが「通態」という言葉で言おうとしているのは「思考」というよりも「存在」に関する議論だ。つまり、「私」という存在はこの動物的身体を越えて、風土全体に浸みこんでいる、ということだ。

 たぶん、分散認知の研究者たちはそこまでは言ってないと思う。たとえば「あなたは紙とペンを使って思考しているわけだから、この紙とペンはあなたという存在そのものですね?」なんてことは言わないだろう1。だけど、ベルクはこの風土そのものが「風土的身体」という意味で「私」なのだという。だからこそ、風土を守るということはそこに住む人々のあり方を守るということにもなるし、したがって、風土は守られなければならないという倫理的主張にもつながってくる(ベルクは『地球と存在の哲学』の中で、西洋の環境倫理学を批判しながら風土と倫理の関係を考察している)。

 しかしここらへんになってくると、「もうついていけない」という人も結構出てくると思う。分散認知は科学的に実証できることだ。実験で確かめることもできるだろうし、分散認知の発想に基づいたロボットを作ることもできる。だけど、風土論は存在論、つまり哲学であって、実証可能な主張ではない。「私とは、この意識なのか? それとも風土性の中に私はあるのか?」と問うたって、そもそも何がどうなったらこれらの仮説を反証できるのかが明確でない以上、実証科学の問題にはなり得ない。

 で、風土論をベースにして環境倫理を構築することの困難もこの辺りにある。どの存在論が正しいかは決着の付けようがない。だから、風土論が存在論である以上、それを「正しい」と思う人もいれば、「くだらねー」と思う人もいるということだ。「くだらねー」と思う人からすれば、風土論をベースにした環境倫理を示されても、受け入れようとはとても思えないだろう。「結局それはあんたの趣味の問題でしょ?」の一言で終わりだ。存在論って、一般社会ではただの趣味でしかないのだ。


  1. と書いたけれど、後から考えると、そうでもないのかもなあと思い直している。『現れる存在』のp340-341のあたりでは、筆者は「環境に何らかの危害を加えることは、普通は人物に危害を加えることを連想する、道徳上の重大性があるかもしれないという主張」に納得すると述べている。「ある神経科学的機能不全のエージェントが、いつも持ち歩いているノートにひどく頼っていて、日常いろいろな場合にノートの内容に従っているというケースである。この場合、悪ふざけでノートを破ることには、特に憂慮すべき道徳的側面がある。つまり、これはまさにその人物に危害を加えているのだ。それも、思いつく限りの文字どおりの意味で」。ただ、風土論とちがって分散認知の方が拡張される「私」の範囲がある程度明確だとは思う。つまり、その人が使ってるノートとかだ。これに対して、風土論はどこまで「私」が拡張されるのかがかなり曖昧だ。たとえば、その人の住んでいる町のどこまでが「私」なのだろうか? 隣町は「私」に含まれるのだろうか? この曖昧さのために、「風土的身体」という言い方を比喩以上の意味で用いるのにはちょっと抵抗感を覚えてしまう。

【読書ノート】『風土学はなぜ何のために』3章

第3章 風土性

 わたし(ベルク)は昔、和辻哲郎の『風土』という本が何を言わんとしているのか、よくわからなかった。とくにわからなかったのは次のようなくだりだ。

この書のめざすところは人間存在の構造契機としての風土性を明らかにすることである。

 「人間存在の構造契機」ってなんだ? 「契機」ってようするに「きっかけ」ということでしょ? 「構造のきっかけ」ってどういうこと?

 あとでわかったのだけど、和辻が使ってる「構造契機」というのは、ドイツ語のStrukturmomentを直訳したものだった。これは、力学的なモーメント、つまり、一対の力からもたらされる動力という意味だった。

 これだけだと、まだ「人間存在の構造契機」という言葉で和辻が何を言おうとしているのかわからない。和辻の考えを理解するには、和辻による「人間」という言葉の分析を引き合いに出さないといけない。

 和辻は、日本語の「人間」という言葉は「世の中」という意味を持つとともに、「個人としての人」という意味も持つと言っている。「人間万事塞翁が馬」とは、「世の中って、いいことも悪いこともあって転変極まりないよね」ということで、このときの「人間」は「世の中」という意味だ。一方で、もちろんひとりひとりの人のことも「人間」という。つまり、人間存在は「関係的半面」と「個人的半面」の両面から成り立つ構造を持つハイブリッドな存在なのだ。これが、「構造契機」ということの意味だ。

 では、風土性が人間存在の構造契機であるとはどういうことか? それは、「風土性とは、個人とその風土によって形作られるダイナミックな対であり、人間存在全体の現実がこの対である」(p34)ということだ。何言ってるかわからない? じゃあ、もう少し説明しよう。

 『身ぶりと言葉』という本がある。人間はもともと猿だったわけだけど、石器のような道具を作るようになり、さらに言葉を通して世界を表現するようになり、少しずつ猿でなくなっていった。猿はただの動物だ。しかし人間は、技術を通して環境を操作することができる(技術による環境の人工化)。また、言葉があるから社会制度が生まれるし、都市も生まれる(象徴による環境の人間化)。これらは人間の動物的身体を越えて環境の中にも人間存在を拡張しているともいえる。いわば、個別的な「動物的身体」に対して外的な「社会的身体」ともいうべきものだろう。

 人間はただの猿として「動物的身体」を持つばかりでなく、「社会的身体」を持つ。ところで、人間は環境としての生態系に含まれているのだから、「社会的身体」という言い方では不十分だろう。そこで、「風土的身体」という言い方をしよう。風土的身体とはわれわれの風土のことである。「そして動物的身体と風土的身体のダイナミックな対――構造契機――が、われわれの風土性なのである」(p39)。

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 さあ、このあたりから予備知識のない人には理解不能なゾーンに入ってきた。とくに、和辻による「人間」の分析とか『身ぶりと言葉』の内容紹介とかを本書ではほとんど端折ってしまっているので、そのまま読んでも理解不能だと思う。上のまとめでは、ベルクが端折ってるところを多少補ってます(和辻の「人間」の分析は『人間の学としての倫理学』の序盤に出てくる)。

 整理してみると、そこまでぶっ飛んだことは言ってないように思った。『身ぶりと言葉』は基本的に考古学の本で、哲学的考察はほとんど入ってないので、誰にでも「ああ、そうなのね」と受け入れられるものだと思う。「社会的身体」という考え方も、アフォーダンスとか分散認知みたいに、身体を単なる肉体から拡張して捉えようとする議論が少しずつ普及してきているので、そこまで突飛には感じない。ベルクは社会的身体に「生態系との関係」という視点を追加して「風土的身体」という新たなラベルを貼っただけだとも言える。

 前回、ベルクによる北海道の稲作の分析をまとめてみて、本当に風土論ってまともな議論なのかどうか不安になったけれど、分散認知のバリエーションのひとつみたいに位置づければ受け入れやすくなるかな? わたしもまだ分散認知はアンディ・クラークの本しか読んでないのだけど。

【研究ノート】計画的行動理論の批判的検討2

 前に書いた記事の後日談的なものを書いておく。

odmy.hatenablog.com

 調べてみたら、計画的行動理論って海外ではかなりボコボコに批判されてるみたい。今から10年近く前に、「計画的行動理論はそろそろ引退した方がいいよ(Time to retire the theory of planned behaviour)」とタイトルの論文が出ていて、グーグルスカラーでみると被引用数が1741もある。でも、この論文を引用している日本語論文を探してみたけれど、なんか見つからない。まだ日本では紹介されてないということかな? 以下、その論文のリンク。

https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/17437199.2013.869710

 どこらへんが批判されているかというと、まず、実験研究がほとんどされていないこと。計画的行動論では、態度と主観的規範とコントロール感が行動意図に影響して、そして行動意図とコントロール感が行動に影響する、という風に変数間の影響の順序がきっちり決まっている。だったら、その順序を踏まえたデザインの実験をするべきなのに、実験研究が少ない。それは、行動変化を扱うための理論がちゃんと構築されてないからだと筆者は述べている。そして、その数少ない実験研究でさえ、計画的行動理論を支持する結果が得られていない。

 また、あまりに少ない変数で行動を説明しようとしているところも批判されている。合理的な意思決定ばかりに焦点を当てていて、無意識による影響や、感情による影響を見ていない。たとえば、習慣なんかの方が行動をずっとよく説明できてるということを示す既存研究もあるとのこと。

 あと、私が無知で知らなかったのだけど、計画的行動理論というのはもともと環境行動を説明するための理論ではなくて、ダイエットとか禁煙とかの健康行動を説明するためのものだそうだ。だけど、計画的行動理論は合理的な意思決定に焦点を当てたものであるがゆえに、「禁煙しようという意図はあるけど、ついつい吸ってしまった」みたいなよくある現象が説明できない。

 で、結果的に計画的行動理論は、人々の健康行動を変えるために実践家が介入を行う上で、なんの役にも立ってないと筆者は厳しく批判している。計画的行動理論から得られる新しい知見はもはや何もない。だからさっさと引退してもらって余生を楽しんでもらおう(should be allowed to enjoy its well-deserved retirement)。いいね。こういう皮肉な言い回しは読んでて楽しい。日本の学術論文でもこういう書き方を認めてほしいものだ。

 さて、自分の研究にどう生かすかというのも最後にちょっと考えてみたい。

 興味があるのは、無意識とか習慣みたいなものの方が行動に影響するよ、というところ。それはすごく納得いく話だし、私も「計画的」行動理論という言い方が前から気になっていた。だって、人間ってそんな何もかも計画通りに動くような合理性は持ち合わせていないし。ましてや、行動経済学ノーベル賞まで取るようになった時代にそうした強い合理性を仮定してしまうのは素朴すぎる(合理性っていっても、ブランダムとかアマルティア・センくらいの緩い感じの合理性を仮定するのなら良いと思うけど)。引用されている論文を読んでみようかな。

 あと、ともかくも計画的行動理論の束縛から解放してもらった感じがあって、そこはうれしい。日本語の論文を読んでいると、行動の規定要因を研究したいのなら計画的行動理論を使っておけばまず間違いなし、みたいな風潮があるような気がしている(そこまで読み込んでないけど)。だけど、計画的行動理論がこれだけズタボロに批判されているということは、もっと自由に自分の理論をつくる余地があるということだ。実際、この論文の最後の節ではさまざまな新しい行動理論が列挙されている。この中に私も自作の理論を忍び込ませておいてもいいわけだ。人の理論を検証するなんて働きアリみたいなことはしたくない。どうせなら自分でなんか作りたいよ。

【読書ノート】『風土学はなぜ何のために』1~2章

 何年か前に読んだ本の再読。

 断続的だけどベルクの風土論はずっと勉強し続けていて、もう20年近くになる。でも、いまだによくわかった気がしていない。

 たぶん、環境問題を解決する上ではほとんど役に立たない議論だと思う。そもそも現実の環境政策に何の影響も与えていないし、これからも影響力は持たないと思う。でも、読む価値がないかというと、そういうわけでもない気がしている。やっぱり、環境とか自然について本質的なところは突いていると思うし、こうした視点をまったく知らない人が環境問題解決に向けて何か提案したとしても、どこか物足りないなあと感じてしまう。直接役立たないとしても、心構えみたいなものとして知っておくべきだとは思う。

 とはいえ、ベルクの本はとてもわかりにくい。読んでいるときはわかったような気分にさせられるけれど、読み終わった後で他人に説明しようとすると、「つ、つーたいが主観と客観を乗り越えて近代の主客二元論が…」みたいにベルクの造語を呪文みたいに唱えて呆れられがちだ。

 ベルクはたくさん本を出している。その中でも本書はとても薄い。なんと解説を除くと101ページしかない。ただ、ベルク風土論のエッセンスを手際よくまとめているとはとても言いがたく、はっきり言って、ベルクの他の本を読んだことのない人が読んでも、他人の日記を読まされているような感じにしかならないと思う。余計な昔話が多すぎるし、重要な概念の説明が不足しているし、後半に行くほど人に理解してもらおうという意思が感じられなくなって、「書きたいことを書いてみましたけど読みたかったら読んでね」って感じの極めてユーザーアンフレンドリーな代物になっている。でも、私は多少知識があるので、説明不足なところもなんとなく推測して理解することができる。補足しながらまとめていこう。

第1章 最初の無理解

 若いころ、私(ベルク)は地理学者として日本に留学しました。先生に和辻哲郎の『風土』を貸してもらったけど、へたくそな英訳だったので意味がわかりませんでした。若き私はまだ風土論に目覚めていませんでした。

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 ここは完全に昔話の章。「ベルクって誰よ?」という人からしたら、なんで知らないフランス人の昔話を読まされなきゃならんの、という気分にさせられる。偉人でもないのに日記を出版してはいけない。自伝は自費出版でお願いします。

第2章 走り坊主の遺産

 博士論文では北海道の開拓時の稲作について書きました。

 日本人が北海道に入植したころ、稲作は禁じられていました。というのは、北海道の気候は稲作には向いていないと思われていたからです。米よりも小麦や馬鈴薯をつくれ、酪農をせよ、というのがアメリカ人顧問のアドバイスでした。

 だけど、日本人の米に対する愛着は西洋人たちの想像を超えたものでした。中山久蔵(1828-1919)という米作りの名人がいて、彼は1873年に、石狩平野で初めて米を収穫することに成功しました。水温を上げるために、自分の家の風呂の湯を田んぼに注いで水の温度を上げたと言います。これこそが、私が後に唱えることとなった「通態性」の典型的なシンボルです。つまり、「湯(ゆ)」という言葉は、いろいろ神聖な意味を持っており、日本ではお湯は魂の力をもつと考えられているのです。中山はこの魂の力を田に注ぎ込み、米という形でその力を受肉させたわけです。

 そして、農民たちの技術改良のおかげで、やがて北海道の大半の地で稲作が可能になりました。彼らは、本州での農業のやり方をそのまま北海道で踏襲したわけではありません。新しい技術、新しい行動、そして新しい風景を伴う、新たな「風土」を創造したのです。

 これは社会と環境との偶然的な出会いによるものです。当時栽培されていたのは北海道での稲作に適した「坊主」という品種ですが、もしこれが北海道以外の土地で生まれていたら、不良品種として撥ねられていたでしょうね。

コメント

 北海道の稲作のエピソードはベルクがあちこちで語っているものだ。この考察が、ベルク風土論の出発点となる。

 このエピソードの何がポイントなのか、わかりにくいのだけど、ようするに「地理決定論的でない」ということだけ押さえていれば良いと思う。つまり、「北海道は稲作に向いてないから小麦を育てよう」と考えてしまうのは、「北海道という環境 → 小麦を栽培する社会」のように環境が社会を完全に決定してしまうという地理決定論に基づいた発想だ。これに対し、北海道の稲作のエピソードでは、環境と社会は相互に影響し合いながら変化していっている。「日本人の社会」だからこそ、そこが稲作に向いていない土地であっても米を作ろうとする。そして、そうした土地で米をつくるには、稲作のやり方も使う品種も本州とはちがったものを開発し、発展させていかなければならない。すると、逆に社会のあり方も影響を受ける。結果的に、北海道の風景は、アメリカの農村のように広大でありながら、耕作されているのは小麦畑ではなく水田であるという、本州とアメリカの合いの子のような独特なものになっている。これこそが北海道という風土の進化だ。

 地理決定論だと何がまずいのかというのは説明されていないけど、まあ、説明するまでもないということだろう。地理決定論みたいな単純な理論だと、世界中に存在する社会や風景の多様性が説明できなくなってしまうのだ。

 しかし、そもそも地理決定論などというものを信じる人が今の時代にいるのかどうか。たぶん、ほとんどの人はそんな風に考えないと思う。もちろん、「日本は地震津波が多いから、日本人は苦難に遭っても弱音を吐かない我慢強い国民になったのだ」のような雑なことを言い出す人はたまにいる。でも、それはあくまで半分冗談で言っていることであって、公の場でそういうことを言ったりすると、文脈によっては差別的発言にもなりかねない(「おまえらの国は地震津波もないから、国民の性質が惰弱なのだ」みたいな裏読みをされるとか)。

 と考えると、地理決定論を否定するということ自体が、とくにインパクトのある主張ではないということになる。社会と環境の間に相互作用があるというのは、改めて言われなくても、当たり前のことなのではないか。

 当たり前すぎて、ベルク以外にあえて取り上げる人がいなかった、という面もあるだろう。また、それだけでなく、あえて「環境と社会」の関係性として捉える必然性がないというのもあると思う。北海道の農民は、北海道の環境という「制約条件」の下で稲作を発展させたのだ。その制約条件の中には、環境だけでなく、ヒト、モノ、カネ、そして社会制度といったものも入ってくるだろう。そこから環境だけを取り出して扱うことにどういう必然性があるのかはよくわからない。

 あと、「湯」に関する議論はぜんぜんついていけない。中山久蔵としてはとにかく水温を温めたかったのであって、別にお湯であることにこだわってたわけではないと思うけど。サーモスタットがあったらサーモスタットを使ってたと思うよ。

 あれ? なんか2章の時点で議論がずいぶんガタガタのような…。